創作審神者と夢審神者を分けたい?
発端はYOUのオンリーでこれらが分けられているかTwitter上の文書でドリーム審神者の文字が使われていたことだったと思う。
私のTLでは「なぜ二つを分けるのか? 境界線が個々人で違うものにラインを引いて意味があるのか?」という意見が多かった半面、検索すると「なぜそんなに一緒にしたいのか? 分けると何か問題があるのか? 地雷はどうするのか? 当然違うのに今更何言ってんだ?」等も声も見かけた。
私にとってこの二つを分けることは、私の小説が行き場を失うことに等しい。なので個人的に一般化して分けられてはこまる、と主張していた。だがここにいろいろ反論を戴いたので、それについて考え、書き記しておく。
ここで私の主張する「分ける」とは「一般的な線引きをする」つまり「皆がそのどちらかであると分類するための明確な基準を設ける」である。したがって主観的な基準はいっさい「分ける基準」にはなりえず、その基準は普遍的に理解されるものでなくてはならない。
※YOU使わなければよくない?と言う意見は散見されたが、YOUはごく一例に過ぎない事、またこの区分けがYOU発端であろうとなかろうと、分けることは一般的であるという意見を多数見かけたので、YOUさえ使わなければ解決する問題ではないと考える。
なので私のような人間は存在しないからと黙殺されないように、書き記すこととした。
【1】この二つは当然違うもので、一般化された一定のラインがある
この主張をする方はだいたい「キャラ×自分=夢小説、それ以外は創作」もしくは「自己投影=夢小説、オリキャラ=創作」という境界を上げる。
まず、後者、オリキャラが創作、についてだが、もちろん夢書き、夢好きの中にも読む時書く時どちらも「夢主はオリキャラ」として扱う層は一定数いる。
タグ「#夢クラ傾向チェックシート」を見ればこれは一目瞭然だと分かるだろう。(タグ使用者にご迷惑のかからないようお願いします)
つまりこのような認識をしてきた夢書きは、ラインを引き分類することで、「あなたの描いている(書いている)ものは、創作(二次オリ)ものであって夢小説ではない」とレッテルを張られてしまうことになる。
しかしジャンル関係なく、夢小説というものを見たときこのようなオリキャラ創作は一定の市民権を得ているのであって(同タグ参照)、それを刀剣乱舞というジャンルのみにおいて「夢小説ではない、オリ創作である」と断じるのは、その基準によって利益を被る人々のエゴではないのか? と考える。
(もちろん個人の内の区分けを否定しているわけではない。この区分けが快適ならそれを自分で使っていればいいし、ただこれを他人に押し付けなければいいというだけだ)
では同じ文脈において、夢小説は自己投影によるものだ。という意見。私は8年以上夢小説と関わってきているが、この「自己投影」というものの区分けの仕方が必ず誰かと同じであるということができないのは確実と言わざるを得ない。
たとえばその主人公は「書き手の自己投影」なのか?それとも「読み手の自己投影」なのか?
また、人によって自己投影の度合いや、自分が自己投影できる設定の度合いも違う。
所謂カレシもののように究極に主人公の存在が薄いものでしか自己投影できない人、顔と名前くらいの設定までなら自己投影できる人、物凄く細かく設定されていても自己投影できる人、そもそも作品によるという人、というか夢小説好きだけど自己投影しない人。
今上げただけで、これだけの「自己投影の境界線」が見つかった。この沢山の境界線の内、夢審神者(創作審神者ではない)を一般化する定義、または創作審神者との境界線としてどれを採用するのだろうか?(これについて聞くと、書き手が決めるという意見を見る。これについては後述)
少なくともどの境界を一般的なものとして採用したとしても他の境界を使用してきたものにとっては価値観の押し付けにしかならないだろう。
次に、「キャラ×自分」が夢小説でそれ以外は創作であるという考えについて。
そもそも夢小説は恋愛だけではない。友情夢とか家族夢とか傍観とか飼い犬になるとかそれはもうさまざまである。この事実も上に挙げたタグの「好みの設定」等を見ればすぐにわかるだろう。一々参照するのが面倒な方は、その辺のサーチ等で「家族夢」を調べてみるといい。専用のランキングすら見つかるだろう。
この後は上記「○○はオリ創作」と同じ路線を辿る。この区分を採用すると、必ず「あなたのは夢小説ではない」とされる者が一定数いる。
(ここで言う一定数とは、マジョリティではないが必ずしも無視できない人数という意味である)
以上、このように創作審神者と夢審神者の区分を一般化して採用するのは、誰かを幸せにするかもしれないが、同時にだれかに価値観を否定することになるのだ。
検索してみた限りではこの2パターンに収まっていたが、それ以外の考えがある方は取り上げられなくて申し訳ない。
しかし当然乍ら、このような創作と言うのは多種多様であって、どこから夢でどこから創作であるかは、書き手、読み手だけでなくそれぞれ一人ずつ違った考えを持っているのだ。そうじゃないとお思いの方は、このような論争(といっていいのか?)が起こる時点で、少なくとも全員が同じ考えではないと分かるはずだ。
この夢審神者と創作審神者を、分けてはならないと言っているのではない。夢審神者だといいたければ主張すればいいし、創作審神者だといいたければそういえばいい。でもそれは私を含めて自分の中に持ってい置くものであって決して他人に強制するものではないことは勿論これをお読みの諸氏は分かっていらっしゃるだろう。
しかしこのように、一人ひとりで境界の違うものを、一般的な定義を作成して二分しようというのは、その「境界のうち一つ」を採用し、他の人々にその価値観を受け入れろということに他ならないのだ。
【2】書き手が決定すればいいという考え
人によって境界が違っているのは分かる、ではその個々人が境界を決め、それを主張すればいいではないか、ということである。
これは一見すれば人の数だけあまたある境界の問題に解決の道を示したと考えられなくもない。しかし、ここには読み手による区分けが全く考慮されていないのである。
このような創作審神者と夢審神者の二分化の理由は大きく分けて二つであろう。
1.読者のための指標(地雷を踏まないために/検索効率を上げるために)
2.作者の主張(自己投影が前提とされている/いないことの主張)
後者について言うなら、これらを二分化することによってまったく恩恵は受けられないと言っておこう。なぜなら、境界を与えなくとも夢審神者、創作審神者は主張したければ主張すればいい/できるものであるし、中には「自己投影をしても、またしなくても構わない」という作品もあるわけである。このような作品はどちらにつけばいいのか分からなくなってしまう。どちらにつくとしても、自ら望まない主張を強いられることになるのである。
前者について、書き手を基準として分けてしまっては検索効率が全く向上しないどころか、意識せずに地雷を踏み抜く機会が増える。
なぜなら書き手と読み手の基準は必ずしも同じではないからである。【1】を読んで分かるように、自分の観測範囲で一見一般的もしくは圧倒的と思われる区分でも、一般的とは言い難い基準ばかりである。
そこで書き手のさまざまな基準をもとにして分類したら、書き手は「夢審神者です」と言っているのに読み手にとっては「なんだ創作審神者じゃないか!こんなの夢じゃない!私は読めないよ~」とか、「創作審神者です」として出されているものが「なんか自己投影っぽくない?これ夢審神者でしょ!わたしはそういうの読めない~」という地獄が現れるのである。
もちろん二分化しなくてもこういうことはままあるかもしれないが、この事態を避けるために境界を設けようというのに、本末転倒ではないだろうか。
書き手の主張が…というなら5段落手前をもう一度読み直してほしい。
【3】じゃあどうして分けてほしくないの?
1.分けてもメリットがない
【2】の項で述べたように、分けることによって目的を達成することができないのだ(これ以外のメリットが思い当たった場合は申し訳ない、教えていただけると嬉しい)
もしこの区分によってメリットがある、というなら、つまり、「私は便利」とか「分けなきゃ論争がおこる」(というか分けても起こってる)とか「一緒にされるのは不快」とかいうなら、それはマジョリティ、もしくは自分と同じ考えのものだけが幸せなら構わないと言っているのと同じであるし、それによって無視される層に目をつぶった典型的な差別的構造と言えるだろう。
そんなことはないというなら、もう一度立ち返って【2】の項目を読み直してほしい。「読者が地雷を踏まないように」「作者が主張したいから」というメリットについてはそこで説明しているように、前者にとってはむしろ弊害、後者はそもそも一般的な境界を用いようがそうでなかろうが同じである。
2.一般的に二分化することで価値観の押しつけが生まれる
これは読み手および書き手が「これが夢小説でこれがオリ創作」とする基準、すなわちそれぞれの価値観というものは多種多様であるからだ。このなかのどれかひとつ、もしくは客観的に(名前が出てこない/容姿の描写がないなど)分かりやすい区分けをしても、誰かにとってのオリ創作は誰かにとっての夢創作となりうるので、どちらかの主張を採用し、相手にその価値観を押し付ける羽目になるのである。
いっしょくたにするのが価値観のおしつけでは? と言う考えもあるが、”分ける必要がない”というのは「夢創作もオリ創作も一緒! 夢審神者も創作審神者も全く同じもの!」と言っているわけではない。「その基準は人それぞれ、多種多様のものなので、わざわざ分けなくても構わない、むしろ分けると弊害がおこるからそこはそっとして、主張したいものは主張するのがいい」ということである。
もちろん作者がいかに主張したとしても、読者と言うのは好きに読むものなのである。だから読者は自身の夢審神者、創作審神者についての価値観を押し付けさえしなければ自由に読んで言いし、作者は自由に主張すればいいのである。
私は、「一般化された一つの基準」を採用することでこの自由が奪われるのではないかと考えている。なぜなら「その基準」以外のものはすべて「一般的ではない、特殊性癖」と言外に断じているに他ならないからだ。
蛇足かもしれないが、私の小説にはすごく夢小説っぽいのとすごくオリ創作っぽいものとすごくモブ小説っぽいものがある。でも私は別に読者がどう思って読んでもらっても構わないし、自分でもオリ創作であり夢創作である、と言えると思ってしまう。
私の個人的なデメリットとしては、望まないジャンルのレッテルを無理やり貼らなければならない、といったところだろうか。
3.差別の助長
この区分けは差別を助長とする。すなわち夢小説とか自己投影とかは創作として劣っているという考え方について行っている。これを呼んでいる夢書きには「そんなかおとないよ~」と言う人と大きく頷くひとに分かれるだろう。
同時に夢に親しくない人には「いやそんなことしていない」と言う人と「正直あんんまり好きじゃないんだよね~」と言う人がいると思う。
「正直あんまり好きじゃないんだよね~」の人は、より一般的な基準を設けることに賛成かもしれない。でも同時に、その区分けが地雷を踏み抜きやすくもする(それはあなたとは限らない。貴方とは別の種類の地雷を持つ人かもしれない)と云う事を思い出してほしい。自分の快適さのために他人を犠牲にするのは、あなたの本意ではないだろう。
「いやそんなことしていない」と「そんな人いないでしょ~」の人には申し訳ない、いるのである。それは個人の好みや地雷という意味ではなく、その性癖そのものを見下している人はいるのである。正直私も去年まで幻か何かかと思っていた。(このような差別に実感のわかない方は、「刀剣乱夢」とか「刀剣乱舞 夢 棲み分け」で調べると分かるかもしれない。)
で、このような区分けをすることによって、なるほどこう分けられているのか、と差別がしやすくなるのである。つまり、作者それぞれの主張なら表面化しなかったものが、もしくはどちらともとれるのであえて主張をしなかったものを分類によってラベルを設けることによって、それを差別対象として見下している人々が、より攻撃しやすくなるのである。
わざわざ草の根を分けて対象を探すことはないかもしれないが、堂々とラベルが並んでいたら、「あれは夢、私たちとは違う、カースト最下層」と認識しやすいのである。(たとえその対象の小説をオリ創作として読んでいる人があったとしても)
長々と書いてきたが、別に私は夢が嫌いな人がいてもいいし、自己投影が夢、それ以外はオリ創作、とかキャラ×自分が夢とか思っている人がいても頓着はしない。
ただ、私は読む時は自己投影しても書く時はできないし、キャラクターの設定はガチガチだし、そもそも恋愛とかほとんど書かない。でもいきなりモブ小説みたいなのをかいたりもするし、男夢主とかも書く。こんな夢小説はその人たちの基準にとっては夢小説ではなくてオリ創作なのかもしれない。でも私は夢小説のつもりで開いているのである。
上記の区分けが一般的で全員がそうだし、そうじゃなきゃ困るでしょ? と言う考えを散見したので、私はここで声を上げなければ、私みたいなものは行き場がなくなってしまうと思った。だからTWITTERでいろいろ言っていたわけであるし、私の「そんな分け方は困る」という考えに対する反論について分析し、私なりの答えを出してみた。
勿論個人の意見ではあるが、それなりに論理的に考えたつもりである。
主張しなければ、射ないものと同じである。私のこの文章についていろいろ思うところ、言いたいこと、反論はあるだろうが、何を言われようと私は恋愛なし設定ガチガチオリキャラ夢小説を書き続けるし、だれに言われようとこれは私にとっては夢小説であり、オリ二次でもあるのだ。
だが声を上げなければ存在しないに等しいし、それでは私がいままで創作をしてきた場所が奪われてしまう。だからこれを書いたのだし、「ほっとけ」と言う意見には「ほっといたら殺される」という心情でお答えしたい。
以上。